Book Select 本を選び、本に選ばれる

読んだ本にまつわる話を書き綴っていくことにしました。マンガが大半を占めていますが小説も好き。マンガはコミックで読む派。本は買って読む派なので常にお金と収納が足りません。例年1000冊以上コミック読んでます。ちなみに当ブログのアフィリエイト収入は昔は1000円くらいいった時もあったけど、今では月200円くらいです(笑)みんなあんまりマンガは買わないんだなぁ。。収入があった場合はすべて本の購入に充てられます。

こんなスケールのでかい不倫漫画読んだことあるか?旦那がスレイマン(オスマントルコの皇帝)なんだぜ!? 篠原千絵/夢の雫、黄金の鳥籠

不倫。
倫理的ではない関係だから不倫というのかしら。
でも仕方ないの、道ならぬ恋は燃え上がってしまうのよ。

でも実際不倫報道されるとみんなしたり顔で不倫は良くないっていうのよね。
大好物なくせに。
物語の題材としては洋の東西を問わず大人気のテーマ。

しかし、ここまでスケールのでかい不倫物語はなかなかないぞ!



なんてったって、旦那がオスマントルコの皇帝だもの。
奴隷からスレイマン後宮に献上され、スレイマンからも愛されるものの、
心は奴隷の身から救ってくれたご主人様に恋い焦がれる。
でも、あなたを皇帝に献上した張本人はそいつですからね・・・。

で、男の方も献上したくせに恋い焦がれちゃう。
レイマンの寵愛を一身に集め、めでたくご懐妊となったのに
どっちの子かわからないという何ともけしからん展開。

そしてこのけしからん状況を、最高に面白いマンガに仕立て上げてくれる篠原千絵
最強の寸止めマンガ『天は赤い河のほとり』を描いた篠原千絵だが、
本作では寸止まらない。

寸止まらない結果、女の描くセックスのいやらしさというか、
美化されたエロさみたいなものがたまに炸裂する。
なんて言ったらいいんだろう、この感じ。

ちょいSのイケメンっていうスレイマンの設定とか、それに責められるMの主人公。
恥じらい見せながらもやってることは超スケールのでかい不倫ですからね。
全く貞淑でも何でもないんだけど、スレイマンは私の夜鳴鳥とか呼んじゃって、
声出させようと責める。
何でそんなに声出させようとするかって、不倫相手がドアの外にいるから。
わざとドア開けて責めたりすんのよね。

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この、あぁ、ダメよダメダメって言いながらしっかりやることやってしまう感じって、なんかすごい女性っぽい。
私は悪くないの、仕方なかったのよ、という声が今にも聞こえてきそう。

そしてそういう状況のための様々なファンタジックな設定及び演出。
「ロマンチック・エロ」*「仕方ないすけべ」これが女性受けする鉄板要素なんではなかろうか。

しかし、題材の持ってき方がユニークだよね。
オスマントルコ、興味持っちゃうよ。

スレイマン大帝とその時代 (イスラーム文化叢書)

スレイマン大帝とその時代 (イスラーム文化叢書)

オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 (講談社現代新書)

オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」 (講談社現代新書)

ざっと検索してとりあえず買ってみたのはこの辺。
というわけで、男性も是非!!

荒唐無稽な劇画っぽさが売りの漫画から物語の型としてのゴルゴ13や水戸黄門に思いを馳せる今日この頃。 北芝健・渡辺保裕/内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎

Kindleで安かった。きっかけはただそれだけなのだけど、
安いとそういう消費行動を誘発するんだという一つの証左でもある。

まぁ、そんなことは置いといて、
内閣権力犯罪強制取締官 財前丈太郎』である。

漢字だらけのタイトル。覚えてもらうことを拒絶しながら
とりあえず印象としては残ることに賭けたようなようなタイトル名ですね。

で、タイトルをよく読めばわかる通り、
権力犯罪を強制的に、取り締まる人の物語なわけです。

つまり権力者の裏の顔を暴き、
権力を握って牛耳っている巨悪を取り締まる痛快な物語、という仕立て。
小泉純一郎みたいな人とか、安倍晋三みたいな人とかが出てきたりして、
そいつらの悪事を暴いていくのだけど、ノリは昭和の劇画。
小池一夫とか池上遼一の香りを感じる。嫌いじゃないよ、そういうの。

で、政治を題材にしたこの手のジャンルでは『サンクチュアリ』が絶品な訳よ。

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こういうのは、とことんバカバカしく荒唐無稽な感じにやってくれると楽しいんだけど、
原作の北芝健は漫画家でもなんでもなくて、元警官の人だからな。
起こり得そうな事件という意味でのリアリティとか、政官財のパワーバランスとかのそれっぽさは出せても
お話自体のマンガっぽさは他の人が補ってやらないといけない。

もちろんそうしてたんだと思うけど、そこら辺、弱いよね。
そこらへんが所詮コミックバンチの限界って感じがしてしまう。

現実と所々リンクしながらリアリティのあるフィクションとしてやっていくなら、
もっと原作者を活かして現代日本を舞台とした『ゴルゴ13』みたいな
路線を確立することもできたと思うんだよね。

この漫画はジャンプ系漫画が強さのインフレを起こしていくように、
財前丈太郎が戦う相手がどんどん大物になっていくという構図になってしまっている。
本来そういうジャンプ系バトルものみたいな構図にハマる必要のない物語のはずなんだけどね。

物語の中でこういうインフレを起こしていくと途中まではお話も盛り上がってはいくんだけど、
一定の閾値を越えてしまうとドンドンしらけていって終わり、ということになってしまう。

ゴルゴ13』は何かと戦うことがメインのお話じゃなくて、世界情勢とかなんでもネタにして、
そこに陰謀論的な物語を絡ませて、結果的に戦いは生じるんだけどゴルゴは全てを超越して強い、という
物語の型の中でひたすら量産している。その量産を支えるネタの取材力が驚異的なんだけど。

きっと丈太郎も、メインを巨悪との戦いの物語ではなくて、
権力者たちの犯罪の物語にすればもっと面白く、長持ちするものになったんじゃないかしら。
実在する事件とかを元にした権力犯罪や陰謀があって、それを全てを超越する財前丈太郎が解決する。
この『ゴルゴ13』的な型に乗っ取って連載するべき漫画だったんだよ、これは。

ゴルゴ13』的な型って言ってるけど、これはある種『水戸黄門』的な型とも言えるな。
悪い権力者が懲らしめられる物語だから、基本的に日本人が好きな種類の話なのよね。

まぁ、そんなことはさておき、作中に後藤田正晴をモチーフにしたキャラクターが出てくるのだが、
なんだか本人のことが妙に気になってきた。

情と理 -カミソリ参謀回顧録- 上 (講談社+α文庫)

情と理 -カミソリ参謀回顧録- 上 (講談社+α文庫)

情と理 -カミソリ参謀回顧録- 下 (講談社+α文庫)

情と理 -カミソリ参謀回顧録- 下 (講談社+α文庫)

昔、買ったままになってた『情と理』を今こそ読むときがきた!って感じ。
こういう読書することによるセレンディピティみたいなのがすごく好き。

どんなにくだらない物語でもそこにはいろんなきっかけに満ちているのよね。
だから読書はやめられない。

虚構の信ぴょう性を虚構が重ねていく緊張感のある物語。 奥泉光/虫樹音楽集

歴史を語ることの難しさとか、そもそもの歴史の虚構性みたいなものを
意識している作家だと知り、順番としてはおかしいのだけど『東京自叙伝』読んでから、
続けてこっちも読んだ。

あるジャズミュージシャンにまつわる思い出と、カフカの『変身』が絡まり合って
出来上がった作品集で、章ごとに語り口も異なる。

虫樹音楽集 (集英社文庫)

虫樹音楽集 (集英社文庫)

これもまたミュージシャンが実在したとするノンフィクションをベースにしたフリをしながら、
虚構の世界が広がっていく。
これも読めば読むほど、何を信じて良いのかわからなくなる。

渡辺柾一というミュージシャンが本当に実在したのかどうかを調べる術がないのだけど、
彼が実在していようと、実在していなかろうと、どっちでも良いっちゃどっちでもいい。

そんなミュージシャンは存在していない方がむしろ面白い。
史実っぽい体で語られる土台の部分が嘘で、しかもその嘘を
尤もらしくするために作られた数々の登場人物と、エピソードを補完するような各章たち。

でもそんなの普通の小説がみんなやってることだったりする。
登場人物があたかも存在するかのように描き、共感を誘うのだけれど、
小説という時点でそれは虚構であり、創作された物語であるとある種安心しきっている。

奥泉光の本はその安心を揺らがせる。
どこまでがフィクションなのか。

でも次第にそんなこともどうでも良い気もしてくる。
ミュージシャンが実在するかどうかはどっちでもいいのだ。

物語の中だけでなく、作者が自作を語るような口ぶりで出てくるところなども、
作品の世界とそのメタレベルの世界を作中に存在させており、
読んでる方は全部素直に信じたくなってしまう。

久しぶりに緊張感のある読書だったけれど、
これと言い、『東京自叙伝』と言い、全て鵜呑みにする人が出てくるんじゃないかしら。

虫樹音楽集 (集英社文庫)

虫樹音楽集 (集英社文庫)

孫子の兵法は有名だけど、孫子自身が描かれる物語って少ないんだよね 星野浩字/ビン~孫子異伝~

孫子の兵法の原形を書いたのは孫武
そして孫武の子孫でその理論を実践、進化させていったのが孫臏。
で、孫子と言うとこの二人のことを指すのだけど、
この物語は後者の孫子、すなわち孫臏が主人公。

時代は紀元前4世紀頃、中国の戦国時代と言われれるタイミング。

そもそも春秋戦国時代というのはものすごく面白い時代。
中国が統一される前、六国がしのぎを削り、各国の英傑たちの伝説的な活躍は物語性もあって面白い。
故事、成句の元になったエピソードも多い。

国史ものといえば三国志が圧倒的なメジャー感だけれども、
どちらかといえば春秋戦国時代の方がなんか好き。
とにかく雑多なんだよね。

三国志よりももっと雑多で色々なキャラクターが出てくるイメージで、
三国志水滸伝足した感じがするんだよね、この辺の時代って。

まぁ、そんな春秋戦国時代の孫臏が主人公な訳だからそりゃそれなりに面白い。
でも、作者自身の意図によるものなのだけど、この作品で描かれているのは、
孫臏の活躍の中のごく一部の時期のごく一部の戦いのみ。

作者の中には長大な構想があり、ここで描かれているのはその1章分に過ぎないらしい。
そう言われれば確かに1章分程度の内容なので納得なのだけど、
言ってしまえばその程度の話にこれだけの巻数費やしてるから、ちょっと話がくどいんだよね。

そしてこういう軍略知略ものって、力ではなく知恵を持って相手を圧倒する話で、
それこそが読んでいて気持ちの良い話。

そういう意味では、『LIAR GAME』とか『嘘喰い』と言った知略ものと系統は一緒のはずなんだよ。

www.book-select.com

それなのに、あぁそれなのに、
なんか後半になるに従ってどちらかというとバトル描写がメインになっていっちゃうんだよね。
違うだろ、と。
この作品に必要なのは力の描写ではなく知力の描写なのよ。
ペンは剣よりも強し、みたいな圧倒的な暴力に対する知恵の勝利みたいな物語であるべきで、
もちろん、そういう要素もあるんだけど、その知恵の描き方すら大味になっていっちゃったってのが正直な感想。

作者自身はまだまだ描きたいこといっぱいあるみたいだし、必ず書くと意気込んでいるから、
今後まだ見ぬ物語を書いてくれることに期待はしてる。
しかしまぁ、漫画誌も厳しい状況だから描ける場所を探しながらってことになるんだろうけど、
コミックスに書いてある決意表明くらい本気で描きたいなら、
さっさと書いて自分でKindleで売ればいいだけだと思うんだよね、このご時世。

それほどまでに描きたいものがあるならば、連載させてくれる場所がないってのは
作家にとってそこまで制約じゃなくなって来ていると思うんだが、
結局連載の原稿料を元手にアシスタント回してかないと描けない、とか
なんだかんだ編集いないと描けない、とか
本当に一人になると途端にできない、みたいなことがあるんだろうなぁ、と。


ま、そんなこともさておき、孫子が描かれている小説が読みたくなってきたのだけど、
これが意外と少ないみたいね。

小説 孫子の兵法〈上〉 (広済堂ブルーブックス)

小説 孫子の兵法〈上〉 (広済堂ブルーブックス)

小説孫子の兵法 (下) (Kosaido blue books)

小説孫子の兵法 (下) (Kosaido blue books)

とりあえず買ってみようかな。

いずれにせよ、続編に期待!

東京が東京の歴史を語るのだけど、果たしてどこまで信じられるか。 奥泉光/東京自叙伝

東京の地霊が、幕末の維新から現代までを語るという設定で、
各時代ごとに主人公が変わる。

地霊が乗り移る人物が主人公なのだが、地霊は次から次へと渡り歩いていくのだ。

その時々の同時代人を通じて描かれる東京なのだが、
あくまでも全てを見てきた東京の地霊が自ら東京を語っている話でもあるので、
確かに自叙伝なのだろう。

東京自叙伝

東京自叙伝

元々何となく好きな作家ではあったのだけど、
熱烈なファンというほどでもなく、という感じだった。
JAZZが好きという共通点に妙な親近感を覚えていたりして、
『鳥類学者のファンタジア』では終盤の演奏シーンがただそれだけで素晴らしかった強烈な印象がある。

そして今調べたら、この作品、コミカライズされてる!!

鳥類学者のファンタジア(上) (KCデラックス)

鳥類学者のファンタジア(上) (KCデラックス)

鳥類学者のファンタジア(下) (KCデラックス)

鳥類学者のファンタジア(下) (KCデラックス)

全然知らなかったー。というかあのボリュームの小説を
よくもまぁ2巻にまとめられたなぁ・・・。

それはさておき、なんとなく買ったまま積ん読してた本書を読むきっかけは、
日経新聞の書評を読んだこと。

www.nikkei.com

上述した書評の下記の部分。

人間の歴史が、史実として記されていること自体が、実は神話的なものであり、この国の近現代史と現在を語るコトバもまた虚構に過ぎないことを暴き出すのである。これは芥川賞受賞作「石の来歴」以来の作家の追究するテーマである。歴史は事実をありのまま描くべきで、小説が安易にロマン化すべきではないとの論争がかつてあったが、奥泉光はそもそも史実とは何か、と問うことから始める。「近代」というものが、「歴史」を客観的な事実として記述しうると信じ、一人の「私」という存在が確固たるものとしてあると信じていたとすれば、作家はそうした「近代」の信憑(しんぴょう)性を根底から突き崩す。この「歴史」小説はその意味で、われわれの近未来の虚無と消失へと向けられているのだ。

歴史とは何か、史実の虚構性、そういった視点かと思ったら急に読みたくなった。

というのも不思議なタイミングってのはあるもんで、
なぜか昔もらった小林秀雄の講演を通勤途中に聞いてたのよね。

小林秀雄講演 第1巻―文学の雑感 [新潮CD] (新潮CD 講演 小林秀雄講演 第 1巻)

小林秀雄講演 第1巻―文学の雑感 [新潮CD] (新潮CD 講演 小林秀雄講演 第 1巻)

この中で小林秀雄は歴史家というのは過去を研究する人ではなく、
過去を蘇らせる人が歴史家なんだ、というようなことを語っていた。
そして自分の子供の時代を調べるのと、何百年も前のことを調べるのは本質的に同じ。
昨日も、1秒前も、過去である。全ての人は歴史家になれる。
歴史は常に主観的で、主観でなければ客観にならない、などなど。
全てに同意するわけじゃないけど、こんな話を聞いた直後だったから
歴史を語るということに関心を持っていたタイミングだったのだ。

常々本は買った時が読みごろとは限らないと思っていて、
人それぞれ、その本が必要になる時って違う。
それは自分でも予想できないのだけど、積ん読セレンディピティって
絶対にあると思うのよね。今回のきっかけもその典型的な事例。

で、実際読んでみると、ある種の諦念と割り切りを持った地霊のキャラクターが面白く、
所々でのちょっと引いた語り口が普通に面白かったのだけど、
尤もらしく語られる東京の歴史は正直何が本当なのかわからなくなる。

地霊のキャラクターが面白いのは例えば下記のような部分。
基本的に冷めていて、合理主義で、身もふたもない。
そしてなるようになるし、なるようにしかならん、という考え方。

学校では何かにつけ誠心誠意が強調された。
が、誠心も誠意も目には見えぬのだから、そのままでは意味がない。
誰かに知られてこその誠心であり誠意であるのは、マアどこの世界でも変わりません。
誠心誠意を見せる相手を選ぶことも大切だ。
どうでもいい人間に見せても一銭の得にもならない。
自分の運命を左右しかねぬ人物を選ぶのはだから当然で、会社や官庁ならまずは上司、幼年学校の場合は生徒監、士官学校なら中隊長や区隊長と云うことになる。

他にもこんなことも言ってる。

従うべき原理があるとするならただ弱肉強食のみ、これは地下の暗がりに棲む虫ケラから国家社会に至るまであまねく同じ。
戦後社会が少しくらい安定したって変わるもんじゃない。
かりにそう見えぬとすれば、弱肉を喰らった強者が品よく振る舞いたいがために偽善の覆いをかけるだけの話だ。

とまぁ、地霊のキャラクターに関してはこんな様子。

で、小説の中では正力松太郎と思しき人が出てきたりするのだが、
登場人物もそれっぽく改名して出ているパターンと、
本名で出ているパターンがある。

それっぽい名前も元ネタ知ってればピンと来るけど、
知らなければ当然気づけないってパターンもある。
そんな中に実在しない人物まで混ざって来るともうどこまでが本当なのか
一気にわからなくなって来る。
この歴史のはずなのに足元を崩されるような感覚こそこの作家のテーマということなのだろう。

元々、なんか山田風太郎の明治時代ものみたいな、歴史を遊ぶ感覚があるなと思っていて、
それは史実としてあったかどうかはわからないけれどなかったとも言い切れないよね、というところで遊ぶ感覚。

『鳥類学者のファンタジア』とかもこの遊びの感覚として読んでいたけれど、
さらに一歩進んで、歴史の虚構性という視点で見るとまた違う発見があるのだろうか。

少なくともこの『東京自叙伝』は面白いんだけど読んでて何も信じられない。
東京の歴史のはずなのに信じられない。
え、ほんとにって思ってしまうあたりなんかちょっと虚構新聞みたいだなとも思ったり。
結局、作者の思うツボということか。。。

東京自叙伝

東京自叙伝

平易な言葉で語られる詩のある生活。 吉野弘/現代詩入門

現代詩入門といっても、吉増剛造のような前衛的な現代詩というわけではなく、
ごくごくスタンダードな、現代の詩の入門編だ。

現代の詩ってなんぞってのは、あまり昔の古典を引っ張り出してきて
解説するのが趣旨じゃないよという程度のもの。
シェイクスピアやダンテ、リルケといった古典にもたまに触れるけど、
著者自身の創作のことや、選評をしたときの話など、
どのように読み、どのように書いてきたかというエピソードが語られる。

現代詩入門 新版

現代詩入門 新版

詩を読むなんて人は、もはや絶滅危惧種なんだと思うのだけど、
詩人が選ぶ言葉には想像を超えるものがある。

小説なんか読んでいてハッとするフレーズとかあるでしょう。
思わず覚えちゃうような。線引いちゃうような名フレーズ。

詩って極限まで言葉を磨き上げて、そのハッとするフレーズみたいなものを
毎回作っているようなもんだと思ってたりする。

村上春樹とか読んで付箋びらびらさせてる人とかは詩も読んでみたら面白いと思うんだけどな。

ハッとするフレーズって今まで気づかなかった物の見方、世界の見方に気づかせてくれたり、
自分では認識してても言葉にできていなかった感覚を言語化してくれるような物だと
思うんだけど、そういう言葉の力をまざまざと感じられるのが詩。

良いなと思う詩を読むとものすごく限られた言葉で情景が目の前に浮かんだりする。
情景が浮かぶというのは、なんとなく平凡な言い方だけれど、
本当に言葉からその世界が立ち現れる瞬間みたいなのがあるんだよね。
そしてそこから、情景だけでなく、叙情のようなものが流れ込んでくる。

もちろん大部分の作品はスルーなんだけど、そういう1編に出会えれば儲けものくらいの感覚で読んでた。

最近は全く読まなくなってしまったけれど、
改めて詩人が書く入門書ってどんなもんなんだろうと思って手に取った次第。

言葉に一つの意味しか感じられないとき、何事も生じません。矛盾した意味、異なった意味が加わったとき、ことばはそそけだち、異質な要素との間にスパークを発します。この「矛盾の共在」の発するスパークを「ポエジイ」と呼びます。
P.228 - P.229

人の作品を改作して比較解説している所などは、
あぁ、言葉の選び方一つでこんなに変わるんだなというのがよくわかる。

作家が選び取った言葉には意味がある。
そして詩人はこんなにも大切に言葉を扱うのだな、ということを改めて知った。

言葉を大切にするというのは日常の中でなかなかできていないなぁと反省しつつ、
せめて言葉と戯れる読書の愉楽は大切にし続けていきたい。

現代詩入門 新版

現代詩入門 新版

天才たちのお話だから感情移入できないんだよね、さらっと読む分には良いけど。 藤巻忠俊/黒子のバスケ

バスケ漫画といえば『スラムダンク』ってくらい
スラムダンク』はバスケ漫画の歴史を塗り替えて頂点に君臨している。

つまりバスケ漫画に挑戦するということは『スラムダンク』に挑むことであり、
それはまぁ、とてつもなくハードルが高い所業なのだ。

真っ向勝負しても仕方がないので何かしらの独自性を打ち出そうとしてくるわけだが、
黒子のバスケ』はその名の通り主人公が黒子として活躍する物語。
目立たないキャラを活かし、幻の6人目としてチームを活かす働きをする主人公という設定。
これはなかなか新鮮なアイデア
主人公がヒーローではなくサポート役というのは切り口としては斬新で、
ジャンプで久しぶりのバスケ漫画として、オリジナリティを出せていると言える。

主人公のライバルたちもキャラが立っていて、
元々中学時代のチームメートで奇跡の世代と呼ばれる天才5人が、
高校では散り散りになって、それぞれ強力なライバルとして登場する。

個人として絶対的な才能を持つライバルに対して、
チームプレーで勝利をしていく姿は、まさに友情、努力、勝利、って感じに思えるが、
実際読んでる感想としては、結局天才たちの物語になっていて感情移入できないということ。

物語の序盤戦はテンポよく進んでいくが、
都合よく勝ちすぎているといえば勝ちすぎているし、
中盤以降は、同じようなパターンが繰り返されているに過ぎない。

正直、はいはい強い強い、すごい敵出てきたねー、
とにかくわけわからんくらい強いやつに最初ボコボコにされて、
わけわからん理由でこっちも追いついて、
最後の最後でゴール決めて勝つって感じでしょ、もう飽きたわ。
などと毒づきながら読んでしまう。

黒子は努力型の設定になっているけれど、
作中では努力が直接的に描かれることはないのも現代っぽい。
まぁ、受けないんだろうね、努力とかって。

そんな時代の変化も感じる作品。

なんか友情も努力も重いのかもね、今の時代。
物語もどんどんライトでインスタントなものになってきてるのかな。