Book Select 本を選び、本に選ばれる

読んだ本にまつわる話を書き綴っていくことにしました。マンガが大半を占めていますが小説も好き。マンガはコミックで読む派。本は買って読む派なので常にお金と収納が足りません。例年1000冊以上コミック読んでます。ちなみに当ブログのアフィリエイト収入は昔は1000円くらいいった時もあったけど、今では月200円くらいです(笑)みんなあんまりマンガは買わないんだなぁ。。収入があった場合はすべて本の購入に充てられます。

これ、間違いなく面白いから一気に読むの確定!! 小川一水/天冥の標 メニー・メニー・シープ

小川一水さんの天冥の標が10年の時を経て完結したらしい。
としたり顔で語っているが、小川一水さんのことも、
天冥の標のことも知ったのはごく最近だ。

twitterで流れてきた小川さんの選評が素晴らしいという話が気になり、
選評読んだら素晴らしかったのでまずお名前を記憶した。

気になるなぁ、代表作は何なのかなと調べていたら、
天冥の標を知った。

その後、kindleのセールで天冥の標がお安くなっていたので大人買いして、
いつか読もうと放置していた。

で、しばらくすると、天冥の標が完結したというニュースが届いた。

わを、なんかこの流れるような展開は運命なんじゃあるまいかと思い、読み始めた次第。

天冥の標? メニー・メニー・シープ(上)

天冥の標? メニー・メニー・シープ(上)

天冥の標 ? メニー・メニー・シープ (下)

天冥の標 ? メニー・メニー・シープ (下)

第1部は宇宙の彼方、西暦2803年に起こった植民星「メニー・メニー・シープ」での革命運動を描く。

複数の種族が住んでいて、移民時に乗ってきた宇宙船がエネルギーを供給し、街が機能している。
独裁状態で、エネルギーの供給がどんどん削られていき、圧政に対する革命運動が起きていく。
でも、とにかくすべてが謎。
皆がどこからどうやって来たのか。様々な種族はいったいどう生まれたのか。
謎の病気は何だったのか?? 隠された別の宇宙船は一体??
そもそもエネルギーを制限していたのは何のためなのか?

次から次へと、謎が謎を呼び伏線を張り巡らしていく。

どうなっちゃうのこれ、どうなっちゃうの??
でも、これまだ全然明かす気ないんでしょ??
まじかー、焦らされるわ!と思いながら一気に読んだ。

そして案の定、終盤戦まじでーってなったので、
これは続編も一気に読むしかありませんね、という感じ。

内容もなんもない単なる感想なのだけど、これ間違いなく面白いぞ!!

天冥の標? メニー・メニー・シープ(上)

天冥の標? メニー・メニー・シープ(上)

天冥の標 ? メニー・メニー・シープ (下)

天冥の標 ? メニー・メニー・シープ (下)

人間の弱さや傲慢さを滑稽に描く寓話たち ヴォルテール/ミクロメガス バベルの図書館

バベルの図書館はボルヘスが世界中の物語を編んだアンソロジー
旧バージョンは全30巻で、1冊1冊が函入りというこだわりの装丁。
大人になって小銭稼ぐようになったので、学生の頃欲しかったこのシリーズを大人買いしてみた。

ちなみに、数年前に新編バベルの図書館として、
全6巻が刊行されているので読むだけならこちらで十分。

新編バベルの図書館 第1巻

新編バベルの図書館 第1巻

で、ヴォルテールである。
スウィフトのガリバー旅行記からの着想なんて指摘されているから
なんのことかと思ったら、巨人が地球に来る話だった。

ガリヴァー旅行記 (岩波文庫)

ガリヴァー旅行記 (岩波文庫)

シリウス星の巨人が宇宙を旅して地球へ来るんだけど、
途中土星によって、土星の小人を連れて一緒に旅したりする。

巨人はめちゃくちゃでかくて地球に来ても人間が小さすぎて見えない。
ダイヤを組み合わせて顕微鏡にしてやっと見えたのが鯨だった、とかいうくだりも。

で、なんだかんだで人間と対話しだすんだけど、
人の傲慢さなどの風刺を効かせているお話。

まぁ、こんな奇想みたいなお話が18世紀の物語なんだよね、ヴォルテール、頭おかしいな。

他にも愛し合う男女が結ばれない物語がお好きなようで
『バビロンの王女』なんかは世界中を壮大な追いかけっこをしている。
モテモテ男が世界中の街を巡りながらいく先々で口説かれる。
男は自らの貞節を証明し続けるのだけど、なぜか「商業娘」(これも面白い訳語)に籠絡されてしまう。

そこで彼は娘と夜食を共にし、飲み食いするうちに日頃の節制を忘れ、そして食後は、美女に対して常に動ずることなく、心とろける媚態にも常に冷酷に振舞うと云う、かの誓いを忘れてしまったのだ。人間の弱さの、何と云う好例であることか!
P.244

で、よりによってたった1回のその現場を後から来たお姫様に見られて激怒されるっていうパターン。

あと、メムノンという作品では、完全完璧であろうと誓いをたてたメムノンがいきなりつまずく。
その描写が奥ゆかしくて面白い。

メムノンは今や極度に彼女の悩みごとに同情していた。かくも操正しく、かくも不幸せな女に、是非とも親切を尽してやりたいという思いが、ますます募る一方だったのである。話に熱が入る余り、彼らは知らず知らずいつの間にか向き合って座るのをやめ、その上いつしか二人の足も、もはや作法通りに組まれてはいなかった。メムノンが余りにぴたりと女に寄り添って忠告し、かつは余りに情深き助言を与えていたため、二人とも次第に悩みごとの相談どころではなく、もう何がどうなっているのやら、さっぱり解らなくなっていた。
P.20

落語とかもそうだけど、昔の人はおおらかだよね。
誓いを立てたり、意識高い側面も見せるんだけど、基本的に意志が弱い。
「何がどうなっているのやら、さっぱり解らなくなっていた。」とか言って、
自分ではどうしようもないことのように言うあたりがおおらかで面白い。

人知を超えた存在が信じられていたと言うのもあるかもしれないよね。
人の限界を知っていて、神などの人を超えた力の前には無力、どうしようもない、しょうがないって言う感覚。
このある種の諦念は、無駄な悩みを排除してくれる側面もあったのかな、と。
うじうじ悩んでてもしょうがないよね、神の思し召しじゃ、みたいな。

好きになっちゃうのはしょうがないのよ、キューピッドの矢が刺さっちゃったんだから、みたいな。

世の中意識高い人が溢れてるけど、たまにこの人何のために意識高いのかなって人もいるよね。
クリステンセンの『イノベーション・オブ・ライフ』じゃないけど、自分の幸せ(を感じるもの)が何なのか、
よーく考えることが大切だと思う。

digima.hatenablog.jp

僕は家族みんなが健康かつ円満で酒飲みながら本読んだりする時間がとれてれば幸せです。


ロードス島戦記とグランクレスト戦記、新旧両作の共通点に思いを馳せる。 水野良/グランクレスト戦記

水野良さんデビュー30周年を迎えていた模様。
そして誰もが?知ってる日本のファンタジー小説の元祖的な
ロードス島戦記』の著者である。

30~40代の人には懐かしい思い出となっているはず。
ロードス島の新作も書き下ろしていると聞き、
25年ぶりに再読してみたりもした。

その後最新作のグランクレスト戦記も読んでみたのだけど、
本質は変わらないなぁ、という感想。


ロードス島戦記』は騎士パーンとエルフのディードリット
中心にした戦記ものだったが、新作も再び戦記ものである。


戦記物であるゆえなのだが、視点が客観的。
いや、水野良はやはりTRPGゲームマスターなんだよね。
常に彼の視点はそこにある気がする。
だから、彼から紡ぎ出される物語は戦記物にならざるを得ないとも言えるんじゃないか。

なのであくまでも観察者的視点において語られるため、
いまいち特定のキャラクターに感情移入仕切れないという面はあると思う。

そしてだからこそなのだが、主人公とヒロインがいちゃつき出すと、
観察者としての私たち読者はついニヤニヤしてしまったり、
少し小っ恥ずかしい気分になったりもする。

これはロードス島戦記グランクレスト戦記、両方に言えること。

主人公は理想に燃える好青年で、まっすぐな彼を支えるヒロインという構図も
新旧両作品の共通の構図。

主人公たちが統一や平和を求めるのに対して、敵は常にどちらかに与せず、混沌というバランスを
求めるという共通点はもはや水野良の作家性というか、テーマなんじゃないかと思う。

変わらないなぁ、という意味でも面白いし、
ある一つの勢力によってもたらされる秩序こそ終わりの始まりというテーマは、
現代においてもなお重要なテーマだと思う。

要するに多様性=ダイバーシティが重要なのよね。
1つの価値観で世界が染め上げられるということは、
決して良いことではない。

昔はそういう平和な時代があったけど、その末路は文明の崩壊へと繋がっていて、
むしろ複数の勢力が争い合う均衡こそが重要だという価値観は、
ロードス島の灰色の魔女のミッションであり、グランクレストにおいてはパンドラの理念でもある。

それでも理想を追い求める主人公たちの奮闘を描くわけだが、
彼らのゴールは終わりの始まりのはずなのよね。

だから、本当は、その後、再び世界が終わりに
向かっていく様も見てみたい、という暗い欲求も持っている。

ハッピーエンド、大団円の後に始まる緩慢な地獄、
それを書かれたら本当にやばい作品だな、と思うのだけど、
そこまで踏み込まないのも健全な水野良作品の特徴なのだとも言える。

水野良は基本的に良い人なんだろうなぁ。
全般的に、性格がいいというか、綺麗な話が多い気がする。
ここで比較するのもなんだけど、
アルスラーン戦記銀河英雄伝説を書いた皆殺しの田中こと田中芳樹の方が、
性格がひねくれていると思うし、それがまた味わい深いポイントになっていたりもするんだよね。

そういや、銀英伝も外伝読んでないな。

水野良グランクレスト戦記ではちょっとだけダークサイドに踏み込んでいて、
物語上重要な女性キャラの純潔が奪われる展開をするのだけど、
正直それが絶対に必要なエピソードだとは最後まで思えなかった。

なんとなく偽悪的というか、わかりやすい衝撃のための演出のような気がしていて、
なんからしくないなぁ、と思ったことは妙に印象に残っている。

僕たちもまた、ゲームの王国に住んでいる。君のプレイしているゲームはなに? 小川哲/ゲームの王国

カンボジアポル・ポトの隠し子、SF、という一見すると不思議な取り合わせなのだけど、
読み始めるとすぐに引き込まれる。

真実がわかる少女ソリヤ、天才少年ムイタック、
Boy meets Girlで物語は動き出す。


ゲームの王国 上

ゲームの王国 上

ゲームの王国 下

ゲームの王国 下


圧政の中で生きる過酷な現実は悪い夢を見ているようだが、
リアルな描写の中に、突然非現実的なキャラクターが登場する。

自分にはそれが魔術的リアリズムのような印象で
読みながらガルシア・マルケスの『百年の孤独』を思い出した。

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

百年の孤独 (Obra de Garc´ia M´arquez)

その現実と非現実の間を縫うように進む感覚はリアルな夢を読んでいる感覚。

脳波を使って操作するゲームの開発と、
そのゲーム内に記憶を埋め込むというアイデアが近未来SF的な要素なのかな。
SFはあまり読んだことないのでなんとも言えないけれど。

やることが多すぎると、何もできなくなる。選択肢が多すぎると考えることが億劫になる。一度その地獄に陥ると、そこから抜け出すことは容易ではない。
下巻 P.43

人から創造性を奪うには忙しくすれば良い。
何から手をつけて良いのかわからない、優先度をつけることができないくらいの状態。
これは本当に巧妙にできた罠で、一度ハマると抜け出すことは難しい。
ラットのように懸命に滑車をこいで、1ミリも前に進ままない。
往々にしてそういうことはある。

二人の息子が一台のゲームを取り合い争っているとします。大人は「順番に遊ばないとゲームを没収する」というルールを制定します。それでようやく、二人ともゲームを遊ぶことができるのです。ルールがなければ、二人は延々とゲームの奪い合いをしているだけです。二人ともゲームができず、幸せになりません。
下巻 P.46

このエピソードも実に象徴的だ。

私たちが暮らしている社会もあらゆるルールの中で成立している。
ルールに囲まれて生きているわけだ。
ってことは家庭でも、職場でも、様々なゲームをプレイしながら生きている。

自分がプレイしているゲームやそのルールに対して自覚的でいられるかは、
仕事をしていく上でもとても重要な認知だと思う。

どんなルールのゲームで、どうすれば勝ちなのか、
あるいはどうすれば負けずにすむのか、
ここに無自覚だとまぁ、勝てない。

ルールや構造を学ばないと、一生抜け出せない。


ゲームの王国 上

ゲームの王国 上

ゲームの王国 下

ゲームの王国 下

美しさとか、絶対と相対とか、毎回1つの壮大なテーマを語った講演、講義録。 ウンベルト・エーコ/世界文明講義

博学のあまり、私のような凡俗には衒学的で小難しいイメージがつきまとうけれど、
まぁ実際小難しいことを言っているかもしれない。

しかしこのような知識人というのは非常に重要な存在だと思う。

本書はエーコの講演を集めて1冊にした本なので、
他と比べても非常にわかりやすく語りかけてきてくれる。

ウンベルト・エーコの世界文明講義

ウンベルト・エーコの世界文明講義

巨人の肩に乗る

ニュートンが手紙に書いたことで有名なフレーズ。
「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです。」
これはすなわち、先人の仕事の上に自らの研究が成り立っているということの例え。

この有名な箴言はそのままニュートンが起源のように思われているけれど、実は違う。

小人と巨人の箴言は、ソールズベリーのヨハネスの「メタロギコン」によれば、シャルトルのベルナルドゥスのことばとされている。12世紀の事だ。もしかすると、ベルナルドゥスは最初の発案者ではないかもしれない。というのは、この概念(小人の比喩は別として)はすでに、その6世紀も前に、カエサリアのプリスキアヌスによって語られているからだ。
P.16

小人のメタファーは我々が取るに足らない存在であることを示しているが、
それでも古人の知恵を踏まえ、前進していけるというメッセージでもある。

ベルナルドゥスの時代には、むしろ我々もまた、後世の人に着想を与えられる
存在たらんとせよ、という鼓舞する意味合いも含まれていたのだとか。

のっけから、そんなマニアックな話でスタートするのだけど、こんなこともどうやって調べたのかと思うと気が遠くなる。
こういう博覧強記な知識人というのは重要だよなぁ、としみじみ思ってしまった。
ちなみに、本書の中でダヴィンチコードの中で語られる符牒などに関しても明らかな誤りがあるとめっちゃ指摘してたりしてそれも面白い。

美しさと醜さ

美しさには正しさという概念が含まれていたという話は興味深かった。
サタンの醜さを正しく描けているものは「美しい」という概念。

正しいものは美しく、正しくないものは美しくない。

しかしまぁ現代において正義と美が結びつくのは気持ち悪い感覚もある。
ナチスは都合の悪いものは退廃芸術と言って排除した歴史もある。

正しさなんていうものは曖昧なものだから。

なんか箴言めいたところにチェック入れてるんだけど、ここだけ読むとわけわからない。

美の経験とはいつも、私たちがその一部をなさないこと、どうしても直接参加したくないようなことを前にして、そこに背を向けながら感じるものだったように思う。美しさの経験とそのほかの情熱のかたちを分けるか細い線は、わたしたちが美とのあいだに取る距離にひかれている。
P.59

美しさは所有できないものに対しても感じることができる。
所有したい、体験したい、という欲求とは別の次元で美しさは感じることができるということ。
そう言われると美を感じられるものとは距離があるのかもしれない。

エーコはこれと逆に醜さとは距離が取れないと言っている。

美しさに対する普遍的な表現というものはあるだろうか?答えは否である。なぜなら美は対象から距離を取ることであり、情熱の不在を意味するからだ。他方、醜さは情熱である。この点をよく理解しなくてはならない。これまでも、醜さの審美的評価なるものは存在し得ないと言われてきたのだから。つまりだ、審美的評価は、対象と距離をとることを必然的に伴う。わたしはあるものを所有しないが、それを美しいと評価する、すなわち自分の情熱に封印をする。反対に、醜さは情熱を、まさに、嫌悪感や拒絶を必然的に伴うと考えられる。対象と距離を取ることができないのだとしたら、醜さの審美学的評価がどうして存在しうるだろうか。
P.63

絶対と相対

ラッツィンガーは、2003年の説法でこう話した。「なにひとつ確固としたものを認めず、各人の自我と欲求だけを唯一の尺度とする相対主義専制政治ができあがろうとしている。しかし、わたしたちにはもう一つの尺度がある。それは、神の子、すなわち真実の人である。」
P.130

ポストモダン以降、全ては相対化された世界。絶対的な価値観、中心の存在しない世界になってきているのは事実。
こうあるべき、こうじゃなければいけない、という盲信させてくれる軸は存在しない。
ただそれは自らの確固たる価値観をモテないということとは同義ではないはずなんだよな。

自分はこれが好き、自分はこれが面白い、自分はこれが大切だ、ただしそれは相対化された世界の中での1つの価値観に過ぎないというだけで。

パラドックス

言葉遊びだけれど、パラドックスアフォリズムは好きだ。
パラドックスの典型はクレタ人が「クレタ人は皆嘘つきだ」って言ったってやつ。

クレタ人が皆嘘つきであることが真だとすると、皆嘘つきだという本当のことをクレタ人が言ったことになるから、矛盾してしまう。
逆にこれが嘘だとすると、皆嘘つきではないことになるが、皆嘘つきだという嘘をついたことになるからこれまた矛盾してしまう。

モンテ・クリスト伯

子供の頃夢中になって読んだ記憶があるけれど、それはあくまでも子供向けのやつだった気がする。
この本を読んだら、オリジナルを読んでみたくなった。

モンテ・クリスト伯〈1〉 (岩波文庫)

モンテ・クリスト伯〈1〉 (岩波文庫)

モンテ・クリスト伯は文句なく面白いっ傑作なのだけど、
同時に欠点だらけの冗長な小説だとエーコは言う。

くどい表現、繰り返される表現が多用され、同じことを言うのにももっと簡潔な表現はいくらでもありうる。
なんでそうなったかと言うと字数でギャラが決まっていて、デュマがお金欲しさに文章を長くしたからだと言う。
あぁ、なんとも俗っぽい話ではあるが、リアリティのある話だ。

エーコは自らモンテ・クリスト伯を翻訳した時に、簡潔な表現に直そうとしたらしいのだが、
この冗長な文章もまたこの作品の魅力なのだと気づいたという。

確かにその冗長な表現までひっくるめてこの作品の味になっているんだろうなぁ。
日本でも教科書文法的には悪文として取り上げられた吉田健一が、
作品としては最高レベルに趣深い文章だってのと似ているかもしれない。

金沢・酒宴 (講談社文芸文庫)

金沢・酒宴 (講談社文芸文庫)

金沢 (1973年)

金沢 (1973年)

金沢にしても、他のエッセイにしても、全て彼の文章は好きだ

ウンベルト・エーコの世界文明講義

ウンベルト・エーコの世界文明講義

今更fateブームに乗っかってFGOも始めたついでに読んでみた。貴婦人の放った矢がランスロットのお尻に刺さっちゃうシーンが一番好き。 トマス・マロリー/アーサー王の死

fate Grand Orderのキャンペーンを大々的にやっているのを見て、気になったのがきっかけ。
そこからfate見てみたら、アーサー王だとか聖杯だとかが出てくるじゃない?

アーサー王と円卓の騎士とか、ちゃんと読んだことなくて知らなかったのよね。

というわけで、読んでみたのがこれ。

アーサー王の死 (ちくま文庫―中世文学集)

アーサー王の死 (ちくま文庫―中世文学集)


アーサー王ランスロット、それぞれを主人公にしたような構成なのだけど、
そもそも2人の伝説に類似性があったりもする。

2人に関連する話で。どっちにも魔法使いに騙されて、王妃だと思って抱いたら違う姫だった、みたいなエピソードがある。

聖杯は望みを叶えるというよりは致命傷を回復させる役回りで登場。

特に聖杯を求めてどうこうする冒険譚ではなかったのが意外。

実にキリスト教の色が濃い物語で、何かと神やイエスの思し召しということになる。

エクスカリバーの鞘が有る限り傷つかない、という記述はあるが、
その恩恵が特筆されるような戦いの描写はなかった。

ランスロット湖のランスロットと呼ばれるイケメン真面目キャラなのだけど、運がない。
ある日、鹿を射止めようと貴婦人が放った矢が、お尻の真ん中に刺さったりする。
ちょっと想像するだに滑稽で面白い。

だって、お尻にプスって・・・

しかもこういう面白シーンが淡々と描かれているのもジワジワ来るんだよね。

貴婦人は弓に大きな矢をつがえ、鹿をめがけて射た。ところが矢は鹿の頭上を越え、馬の具足を越えて、運悪くラーンスロットの尻のまん中につきささった。ラーンスロットは激痛を覚えると、かっとなって飛びあがり、自分を射た貴婦人を見た。相手が女とわかると、こう言った。
「奥方か娘御か知らないが、間の悪いときに弓を持っておられたものだ。あなたなんかは射手になるべきじゃない」
P.284

お尻の真ん中に矢が刺さっても、紳士な対応である。
矢が刺さったまま話したのか、抜いてから話したのか、そこだけが気になる。

アーサー王の死 (ちくま文庫―中世文学集)

アーサー王の死 (ちくま文庫―中世文学集)

スター・ウォーズの映画つまんねって思ってる私をしてなにこれすごい面白いじゃんと思わせた傑作。 テリー・ブルックス/スター・ウォーズ エピソード1:ファントム・メナス

スター・ウォーズ、実は全然はまらなかった。

何度かブームが来る度に、映画を見直してみようとしてみた。
全世界であれだけ人気のエンターテインメント作品を全く面白いと思えない自分は何か大事なものを見落としてるのではないか?
小難しい作品ばかり評価するようなサブカルくそ野郎になっているのではないか、と自問自答しながら、レンタルした映画を観てみる。

しかし、やはりつまらないのだ。
僕にはどうしようもなくつまらない。

冗長な戦闘シーン、ブーンブーン、ピュンっピュンっ、どかーん。
追いかけたり追いかけられたりのチェイスがなぜあんなにずっと続くのか??ビュンビューン。

物語描写に割かれる時間が圧倒的に少なくてよく意味わからん。

あ、またスリリングな追いかけっこが始まったぞ、、、zzz

で、寝落ちしてしまったりする。

だからもう自分には、スター・ウォーズは楽しめないんだって諦めてた。

しかし、だ。

出会いは突然やってくる。

講談社文庫から小説が出ているではないですか。
映画を見ている限り、小説になりそうもない薄っぺらさなのだけど、
本当は重厚な物語が裏にあるのかもしれない、そう思った私はおもむろに読み始めたのでした。

そうしたら、これがすこぶる面白い!!

映画とは比べ物にならないほどの豊かな心理描写。
あぁ、そういう思いで行動していたのか、ということが丁寧に語られる。

アナキンがオビワンとパドメの関係を疑っていたなんて映画から読み取れないでしょ???

少なくともエピソード1〜3、アナキンがダークサイドに落ちていく物語は、完全なる心理劇なのだ。

シスの暗黒卿によって完璧に仕組まれた心理戦。
手の平で踊らされるアナキン。

少年の憧憬がそのまま恋愛になり、理解者かつ承認欲求を満たしてくれる存在であるパドメに執着。
禁じられた恋をも認め、見守ってくれる立ち位置を巧妙に演出するパルパティーン

肥大した承認欲求は不当な扱いを受けているという被害妄想に繋がり、
師であるオビ・ワン・ケノービへの不信と不満を募らせる。

まさに堕ちていく過程の心理が克明に記されている文学作品としての趣を感じる作品になっていて、映画の100倍面白い。

これを読んで、映画を見たら、寝落ちせずに見続けることができたが、
映画がやはりあまりにも薄っぺらいことが明らかにもなった。

しかし、本当に承認欲求とは恐ろしいものだよ。
誰かに認められたい、誰かに評価されたい、それって自分の喜びを他者に委ねているってことなんだよね。
自分の喜び、充足感を他人に委ねてしまえばしまうほど、自分の人生を生きられなくなる。
認められていないという不満ばかりが先に立つ。

他人など所詮他人でしかなく、自分も含め、人は皆、大切にできる人の数なんてたかが知れている。
その人にとって自分が家族や恋人、親友といったレベルで重要な位置付けでないならば、
その人から喜びを得ようとするのは正直不毛だし、不幸しか生まない。
皆、他人を満足させるために生きている訳ではないからね。

お互い勝手に楽しく生きよう、を人付き合いの基本にした方が楽しいよね。

アナキンもそうやって生きられたら、ジェダイもシスもほっといて、パドメとどっかでのんびり暮らせたんだと思うんだよね。

あと、アナキンて母はいるけど父はいないんだよね。
性交を伴わない受胎なのよ、まぁ明らかにキリスト的な生まれ方してる。
でもその救世主が俗世にまみれて、ひどく人間的にダークサイドに堕ちていく。

そして子を成し、物語は父親殺しのオイディプス的な物語へ繋がっていく訳だ。

小説はエピソード4以降よりも1〜3が秀逸な感じ。

スター・ウォーズファンはもちろんだけど、いまいちこれまで面白いと思えなかった人たちにこそ読んでほしい作品だったな。