Book Select 本を選び、本に選ばれる

読んだ本にまつわる話を書き綴っていくことにしました。マンガが大半を占めていますが小説も好き。マンガはコミックで読む派。本は買って読む派なので常にお金と収納が足りません。例年1000冊以上コミック読んでます。ちなみに当ブログのアフィリエイト収入は昔は1000円くらいいった時もあったけど、今では月200円くらいです(笑)みんなあんまりマンガは買わないんだなぁ。。収入があった場合はすべて本の購入に充てられます。

美しさとか、絶対と相対とか、毎回1つの壮大なテーマを語った講演、講義録。 ウンベルト・エーコ/世界文明講義

博学のあまり、私のような凡俗には衒学的で小難しいイメージがつきまとうけれど、
まぁ実際小難しいことを言っているかもしれない。

しかしこのような知識人というのは非常に重要な存在だと思う。

本書はエーコの講演を集めて1冊にした本なので、
他と比べても非常にわかりやすく語りかけてきてくれる。

ウンベルト・エーコの世界文明講義

ウンベルト・エーコの世界文明講義

巨人の肩に乗る

ニュートンが手紙に書いたことで有名なフレーズ。
「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それはひとえに巨人の肩の上に乗っていたからです。」
これはすなわち、先人の仕事の上に自らの研究が成り立っているということの例え。

この有名な箴言はそのままニュートンが起源のように思われているけれど、実は違う。

小人と巨人の箴言は、ソールズベリーのヨハネスの「メタロギコン」によれば、シャルトルのベルナルドゥスのことばとされている。12世紀の事だ。もしかすると、ベルナルドゥスは最初の発案者ではないかもしれない。というのは、この概念(小人の比喩は別として)はすでに、その6世紀も前に、カエサリアのプリスキアヌスによって語られているからだ。
P.16

小人のメタファーは我々が取るに足らない存在であることを示しているが、
それでも古人の知恵を踏まえ、前進していけるというメッセージでもある。

ベルナルドゥスの時代には、むしろ我々もまた、後世の人に着想を与えられる
存在たらんとせよ、という鼓舞する意味合いも含まれていたのだとか。

のっけから、そんなマニアックな話でスタートするのだけど、こんなこともどうやって調べたのかと思うと気が遠くなる。
こういう博覧強記な知識人というのは重要だよなぁ、としみじみ思ってしまった。
ちなみに、本書の中でダヴィンチコードの中で語られる符牒などに関しても明らかな誤りがあるとめっちゃ指摘してたりしてそれも面白い。

美しさと醜さ

美しさには正しさという概念が含まれていたという話は興味深かった。
サタンの醜さを正しく描けているものは「美しい」という概念。

正しいものは美しく、正しくないものは美しくない。

しかしまぁ現代において正義と美が結びつくのは気持ち悪い感覚もある。
ナチスは都合の悪いものは退廃芸術と言って排除した歴史もある。

正しさなんていうものは曖昧なものだから。

なんか箴言めいたところにチェック入れてるんだけど、ここだけ読むとわけわからない。

美の経験とはいつも、私たちがその一部をなさないこと、どうしても直接参加したくないようなことを前にして、そこに背を向けながら感じるものだったように思う。美しさの経験とそのほかの情熱のかたちを分けるか細い線は、わたしたちが美とのあいだに取る距離にひかれている。
P.59

美しさは所有できないものに対しても感じることができる。
所有したい、体験したい、という欲求とは別の次元で美しさは感じることができるということ。
そう言われると美を感じられるものとは距離があるのかもしれない。

エーコはこれと逆に醜さとは距離が取れないと言っている。

美しさに対する普遍的な表現というものはあるだろうか?答えは否である。なぜなら美は対象から距離を取ることであり、情熱の不在を意味するからだ。他方、醜さは情熱である。この点をよく理解しなくてはならない。これまでも、醜さの審美的評価なるものは存在し得ないと言われてきたのだから。つまりだ、審美的評価は、対象と距離をとることを必然的に伴う。わたしはあるものを所有しないが、それを美しいと評価する、すなわち自分の情熱に封印をする。反対に、醜さは情熱を、まさに、嫌悪感や拒絶を必然的に伴うと考えられる。対象と距離を取ることができないのだとしたら、醜さの審美学的評価がどうして存在しうるだろうか。
P.63

絶対と相対

ラッツィンガーは、2003年の説法でこう話した。「なにひとつ確固としたものを認めず、各人の自我と欲求だけを唯一の尺度とする相対主義専制政治ができあがろうとしている。しかし、わたしたちにはもう一つの尺度がある。それは、神の子、すなわち真実の人である。」
P.130

ポストモダン以降、全ては相対化された世界。絶対的な価値観、中心の存在しない世界になってきているのは事実。
こうあるべき、こうじゃなければいけない、という盲信させてくれる軸は存在しない。
ただそれは自らの確固たる価値観をモテないということとは同義ではないはずなんだよな。

自分はこれが好き、自分はこれが面白い、自分はこれが大切だ、ただしそれは相対化された世界の中での1つの価値観に過ぎないというだけで。

パラドックス

言葉遊びだけれど、パラドックスアフォリズムは好きだ。
パラドックスの典型はクレタ人が「クレタ人は皆嘘つきだ」って言ったってやつ。

クレタ人が皆嘘つきであることが真だとすると、皆嘘つきだという本当のことをクレタ人が言ったことになるから、矛盾してしまう。
逆にこれが嘘だとすると、皆嘘つきではないことになるが、皆嘘つきだという嘘をついたことになるからこれまた矛盾してしまう。

モンテ・クリスト伯

子供の頃夢中になって読んだ記憶があるけれど、それはあくまでも子供向けのやつだった気がする。
この本を読んだら、オリジナルを読んでみたくなった。

モンテ・クリスト伯〈1〉 (岩波文庫)

モンテ・クリスト伯〈1〉 (岩波文庫)

モンテ・クリスト伯は文句なく面白いっ傑作なのだけど、
同時に欠点だらけの冗長な小説だとエーコは言う。

くどい表現、繰り返される表現が多用され、同じことを言うのにももっと簡潔な表現はいくらでもありうる。
なんでそうなったかと言うと字数でギャラが決まっていて、デュマがお金欲しさに文章を長くしたからだと言う。
あぁ、なんとも俗っぽい話ではあるが、リアリティのある話だ。

エーコは自らモンテ・クリスト伯を翻訳した時に、簡潔な表現に直そうとしたらしいのだが、
この冗長な文章もまたこの作品の魅力なのだと気づいたという。

確かにその冗長な表現までひっくるめてこの作品の味になっているんだろうなぁ。
日本でも教科書文法的には悪文として取り上げられた吉田健一が、
作品としては最高レベルに趣深い文章だってのと似ているかもしれない。

金沢・酒宴 (講談社文芸文庫)

金沢・酒宴 (講談社文芸文庫)

金沢 (1973年)

金沢 (1973年)

金沢にしても、他のエッセイにしても、全て彼の文章は好きだ

ウンベルト・エーコの世界文明講義

ウンベルト・エーコの世界文明講義