Book Select 本を選び、本に選ばれる

読んだ本にまつわる話を書き綴っていくことにしました。マンガが大半を占めていますが小説も好き。マンガはコミックで読む派。本は買って読む派なので常にお金と収納が足りません。例年1000冊以上コミック読んでます。ちなみに当ブログのアフィリエイト収入は昔は1000円くらいいった時もあったけど、今では月200円くらいです(笑)みんなあんまりマンガは買わないんだなぁ。。収入があった場合はすべて本の購入に充てられます。

東京が東京の歴史を語るのだけど、果たしてどこまで信じられるか。 奥泉光/東京自叙伝

東京の地霊が、幕末の維新から現代までを語るという設定で、
各時代ごとに主人公が変わる。

地霊が乗り移る人物が主人公なのだが、地霊は次から次へと渡り歩いていくのだ。

その時々の同時代人を通じて描かれる東京なのだが、
あくまでも全てを見てきた東京の地霊が自ら東京を語っている話でもあるので、
確かに自叙伝なのだろう。

東京自叙伝

東京自叙伝

元々何となく好きな作家ではあったのだけど、
熱烈なファンというほどでもなく、という感じだった。
JAZZが好きという共通点に妙な親近感を覚えていたりして、
『鳥類学者のファンタジア』では終盤の演奏シーンがただそれだけで素晴らしかった強烈な印象がある。

そして今調べたら、この作品、コミカライズされてる!!

鳥類学者のファンタジア(上) (KCデラックス)

鳥類学者のファンタジア(上) (KCデラックス)

鳥類学者のファンタジア(下) (KCデラックス)

鳥類学者のファンタジア(下) (KCデラックス)

全然知らなかったー。というかあのボリュームの小説を
よくもまぁ2巻にまとめられたなぁ・・・。

それはさておき、なんとなく買ったまま積ん読してた本書を読むきっかけは、
日経新聞の書評を読んだこと。

www.nikkei.com

上述した書評の下記の部分。

人間の歴史が、史実として記されていること自体が、実は神話的なものであり、この国の近現代史と現在を語るコトバもまた虚構に過ぎないことを暴き出すのである。これは芥川賞受賞作「石の来歴」以来の作家の追究するテーマである。歴史は事実をありのまま描くべきで、小説が安易にロマン化すべきではないとの論争がかつてあったが、奥泉光はそもそも史実とは何か、と問うことから始める。「近代」というものが、「歴史」を客観的な事実として記述しうると信じ、一人の「私」という存在が確固たるものとしてあると信じていたとすれば、作家はそうした「近代」の信憑(しんぴょう)性を根底から突き崩す。この「歴史」小説はその意味で、われわれの近未来の虚無と消失へと向けられているのだ。

歴史とは何か、史実の虚構性、そういった視点かと思ったら急に読みたくなった。

というのも不思議なタイミングってのはあるもんで、
なぜか昔もらった小林秀雄の講演を通勤途中に聞いてたのよね。

小林秀雄講演 第1巻―文学の雑感 [新潮CD] (新潮CD 講演 小林秀雄講演 第 1巻)

小林秀雄講演 第1巻―文学の雑感 [新潮CD] (新潮CD 講演 小林秀雄講演 第 1巻)

この中で小林秀雄は歴史家というのは過去を研究する人ではなく、
過去を蘇らせる人が歴史家なんだ、というようなことを語っていた。
そして自分の子供の時代を調べるのと、何百年も前のことを調べるのは本質的に同じ。
昨日も、1秒前も、過去である。全ての人は歴史家になれる。
歴史は常に主観的で、主観でなければ客観にならない、などなど。
全てに同意するわけじゃないけど、こんな話を聞いた直後だったから
歴史を語るということに関心を持っていたタイミングだったのだ。

常々本は買った時が読みごろとは限らないと思っていて、
人それぞれ、その本が必要になる時って違う。
それは自分でも予想できないのだけど、積ん読セレンディピティって
絶対にあると思うのよね。今回のきっかけもその典型的な事例。

で、実際読んでみると、ある種の諦念と割り切りを持った地霊のキャラクターが面白く、
所々でのちょっと引いた語り口が普通に面白かったのだけど、
尤もらしく語られる東京の歴史は正直何が本当なのかわからなくなる。

地霊のキャラクターが面白いのは例えば下記のような部分。
基本的に冷めていて、合理主義で、身もふたもない。
そしてなるようになるし、なるようにしかならん、という考え方。

学校では何かにつけ誠心誠意が強調された。
が、誠心も誠意も目には見えぬのだから、そのままでは意味がない。
誰かに知られてこその誠心であり誠意であるのは、マアどこの世界でも変わりません。
誠心誠意を見せる相手を選ぶことも大切だ。
どうでもいい人間に見せても一銭の得にもならない。
自分の運命を左右しかねぬ人物を選ぶのはだから当然で、会社や官庁ならまずは上司、幼年学校の場合は生徒監、士官学校なら中隊長や区隊長と云うことになる。

他にもこんなことも言ってる。

従うべき原理があるとするならただ弱肉強食のみ、これは地下の暗がりに棲む虫ケラから国家社会に至るまであまねく同じ。
戦後社会が少しくらい安定したって変わるもんじゃない。
かりにそう見えぬとすれば、弱肉を喰らった強者が品よく振る舞いたいがために偽善の覆いをかけるだけの話だ。

とまぁ、地霊のキャラクターに関してはこんな様子。

で、小説の中では正力松太郎と思しき人が出てきたりするのだが、
登場人物もそれっぽく改名して出ているパターンと、
本名で出ているパターンがある。

それっぽい名前も元ネタ知ってればピンと来るけど、
知らなければ当然気づけないってパターンもある。
そんな中に実在しない人物まで混ざって来るともうどこまでが本当なのか
一気にわからなくなって来る。
この歴史のはずなのに足元を崩されるような感覚こそこの作家のテーマということなのだろう。

元々、なんか山田風太郎の明治時代ものみたいな、歴史を遊ぶ感覚があるなと思っていて、
それは史実としてあったかどうかはわからないけれどなかったとも言い切れないよね、というところで遊ぶ感覚。

『鳥類学者のファンタジア』とかもこの遊びの感覚として読んでいたけれど、
さらに一歩進んで、歴史の虚構性という視点で見るとまた違う発見があるのだろうか。

少なくともこの『東京自叙伝』は面白いんだけど読んでて何も信じられない。
東京の歴史のはずなのに信じられない。
え、ほんとにって思ってしまうあたりなんかちょっと虚構新聞みたいだなとも思ったり。
結局、作者の思うツボということか。。。

東京自叙伝

東京自叙伝